宇喜多秀家の系譜

 宇喜多氏の出自に関しては、『宇喜多能家寿像画賛』の百済王出自説がもっとも有名である。能家は宇喜多秀家の祖父である。能家―直家―秀家と続く。京都南禅寺の僧九峰宗成による『宇喜多能家寿像画賛』は岡山県立博物館に収蔵され、国指定の重要文化財になっている。奥書によれば成立は大永四年(一五二四)八月であり、同時代資料といえる。
 九峰宗成については、朝倉尚の論文「景徐周麟の文筆活動――延徳三年(2)」(地域文化研究三〇巻、二〇〇四年)に詳しい。九峰宗成の系譜には不明な点が多いが、足利義政の子息といわれている。九峰宗成は『蔭凉軒日録』の記主亀泉集証と親しいが、亀泉は赤松氏の一族であり、同記には赤松氏が多く登場し、「浮田新兵衛」「浮田将監」を確認できる。このような由縁があり、九峰宗成が宇喜多能家寿像画賛を記したのだろう。
 この画賛によると、宇喜多氏の出身地は備前児島で、本姓は三宅氏であり、百済王の子孫だという。日本に流れ着いた百済王子兄弟の子孫で、児島に来てから三宅姓を名乗ったという。しかし宇喜多という地名については記さない。現在、岡山県に浮田村があったが、これは明治二十二年(一八八九)に成立したもので、宇喜多氏の名字の地ではない。宇喜多氏そのものは備前三宅氏の出自ではなく、三宅氏に接ぎ木したと考えられる。
 備前藩士大森景頼所蔵宇喜多系図(『戦国宇喜多一族』)によれば、百済王の子孫三条中将の子孫だという。三条中将は大治年間(一一二六~三一)に山城国大荒木田宇喜多社領であった備前児島に至ったという。この大荒木田は、『三代実録』貞観元年(八五九)一月二十七日条で、「京畿七道諸神進階及新叙惣二百六十七社」として山城国正六位上与度神を従五位下に叙したとある淀姫大明神のことであり、「菟芸泥赴」によれば西鴨浮田森を大荒木といったという。
 実は、『万葉集』巻十一で「かくしてやなをや守らむ大荒木の浮田の杜の標ならなくに」とあるように、大和宇智郡荒木神社(現五條市今井町)を「浮田の杜」と呼んでいた。祭神は大荒木命である。宇智は内という意味であり、孝元天皇を祖とする内臣の本拠である。武内宿禰(たけしうちのすくね)の母が紀国造であるように、大和から紀伊にむかう巨勢道にある。荒木神社のある大和宇智郡と山城宇治、宇治川下流の淀川と日向浮田庄を流れる大淀川の関連が気にかかる。さらに宇治・淀川水系の水源琵琶湖沿岸の高島郡に宇伎多神社があることから、浮田(宇伎多)は水運に関する地名と考えられるが、また日向隼人と浮田物部の関係も推測できる。大荒木命は、海人族によるアラハバキ神の呼称とも考えられる。
 『系図纂要』所収の三宅系図では、三宅氏を新羅王子の天日槍の子孫三宅範勝に、佐々木盛綱の子孫備前守護佐々木加地氏の子孫である東郷長胤の次男和田備後守範長が養子に入り、そのあと児島高徳(備後守)―高秀(始住宇喜多)―高家―信徳―久家―能家と続いたという。太平記で活躍が描かれている児島高徳の子孫と伝えられる。
 嘉永四年(一八五一)成立の飯田忠彦著『野史』でも、宇喜多氏を児島高徳の子孫とし、高徳の子高秀が宇喜多氏を始めて称したという。『赤松再興記』でも、「浮田は、佐々木の庶流備後三郎高徳が後胤也」とある。さらに鈴木真年編『百家系図』所収の浮田系図では、宇喜多高秀の子高家のとき、三条家の落胤藤原宗家を女婿にしたという。そして宇喜多氏は、宗家―久家―能家―直家―秀家と続く。
 宗家については資料で確認でき、岡山県西大寺文書に「成光寺来迎免名主職寄進状案文」として 文明元年(一四六九)五月十六日付宇喜多五郎右衛門入道沙弥宝昌寄進状案文と文明二年五月廿二日付宇喜多修理進宗家渡状、延徳四年七月廿五日宇喜多蔵人佐久家寄進状が伝わる。おそらく沙弥宝昌が父で、宗家が子、久家が孫であろう。
 また邑久郡弘法寺の過去帳位牌に、次のようにある。

 一、道 幸   内山二郎右衛門
 一、妙 秀   宇喜多東春母
 一、妙 言   南条五郎衛門母
 一、宗 家   宇喜多三郎右衛門
 一、妙 融   笹賀郷
 一、東 春   宇喜多越中殿
 一、去仲常政 和泉殿
 一、道 光   南北条中屋□□□村
 一、円周妙性 但馬殿上
 一、浄 泉   阿知村
 一、小島方   邑久郷
 一、大京方   阿知村

 このうち、宇喜多三郎右衛門宗家は修理進宗家であろう。妙秀は宇喜多東春殿母とあり、宗家の室の可能性がある。そして宇喜多越中殿(東春)が宗家の子久家で、和泉殿が孫宇喜多能家、但馬殿は寄進状を伝える宇喜多但馬守であろう。また邑久郷の小島方が見え、邑久郷を本貫とした佐々木小島氏との関係も推測できる。
 宇喜多の地名を探すと、太田亮編『姓氏家系大辞典』の浮田氏の項で、「古代奥州に浮田国あり、其の他武蔵に宇喜田、日向に浮田の地あり」とある。
 まず武蔵国葛飾郡東西宇喜田村(現在の江戸川区宇喜田町)は、化政期に編集された『新編武蔵国風土記稿』葛飾郡二之江村条によれば、扇谷上杉朝昌の庶子宇田川石見守親種の第三子宇田川定氏(喜兵衛尉)とその子喜兵衛定次が、慶長元年(一五九六)に開発したため、宇田川喜兵衛が開発した新田という意味で「宇喜田」と名付けられたものであり、備前宇喜多氏とは関係ない。
 また日向国浮田庄(現宮崎市浮田)は、『宇佐大鏡』によれば、天善五年(一〇五七)国司管野政義が国務の責任で豊前宇佐八幡宮に納入すべき封物の一部、封民三四人相当の代替として宮崎郡内の荒地を開発して神領として宇佐社に寄進して成立した。鎌倉期には摂関家が本所であり、宇佐氏が地頭・弁済使職を相伝していた(東寺文書所収建仁三年十一月日近衛基通政所下文案)。また『民経記』寛喜三年八月十八日条・同月二十二日条・九月一日条・十一月十六日条も、本所が近衛家実、領家が土御門定通で、大宮司宇佐公定の一族の間で所領をめぐり相論があったことが伝えられている。南北朝期には南朝方の肝属氏に従った跡江方預所瓜生野八郎左衛門尉が城を構えて立てこもり、北朝方の土持宣栄は高浮田に城を構えた(旧記雑録所収建武三年二月七日付土持宣栄軍忠状)。室町期には宇佐八幡宮の神職田部氏の一族土持氏が城を築いていたが、その一族に浮田氏は見えない。
 陸奥については、『先代旧事本紀』巻第十で染羽国造と信夫国造の間に浮田国造が挙げられ、成務天皇(志賀高穴穂朝)のとき、崇神天皇(瑞籬朝)の五世孫賀我別王を国造にしたという。浮田国は大化の改新後に陸奥国が設置されると、宇多川流域が宇多郡に、新田川流域が行方郡に分割された。
 賀我別王は上毛野氏の祖鹿我別王であり、その子孫は吉弥侯部氏として奥羽に広がったが、その一族には上毛野陸奥公・上毛野名取朝臣・上毛野中村公のほか物部斯波連の氏姓を給付される者もあり、『続日本紀』承和二年(八三五)二月四日条に、俘囚である勳五等吉弥侯宇加奴、勳五等吉弥侯志波宇志、勳五等吉弥侯億可太らに物部斯波連の姓を賜ったという記事がある。岩手県に浮田村(現花巻市東和町上浮田・下浮田)があり、天正九年(一五八一)一月の和賀氏分限帳(小田島家記録写)の地下士(堪忍衆)のなかに浮田左兵衛が見える。同氏の館と伝える車館跡が上浮田山居沢西側丘陵頂部にあり、物部斯波連を給付された浮田物部の子孫とも考えられる。
 ところで、『延喜式神名帳』に近江高島郡鎮座として記された宇伎多神社がある。琵琶湖から鴨川を上った近江高島郡野田村(現高島町野田)にある。祭神は八重事代主神である。『先代旧事本紀』巻第三によると 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとあるが、天物部等二十五部人のひとつに浮田物部がある。宇伎多神社の地は浮田物部の定着地と考えられる。近江浅井氏に物部氏族を名乗る系譜伝承があるのは、浮田物部氏との関係によろう。淀姫大明神が浮田の森と呼ばれ、淀川の水源琵琶湖北岸の高島郡に宇伎多神社があり、浮田物部氏の伝播した様子が分かる。浮田は水運と関係が深い。大森本宇喜多系図で宇喜多氏が宇伎多神社によると分かる。また大和宇智郡荒木神社(浮田杜)は巨勢道で紀伊国とつながるが、やはり浮田物部が水運を利用して、水系に沿って伝播したと推測される。陸奥浮田国も浮田物部が伝播したものと考えられる。
 鎌倉期には、近江守護佐々木信綱の次男佐々木近江二郎左衛門尉高信(高島家祖)が鎌倉期の嘉禎三年(一二三七)社域周囲の水田七〇石を寄進した(高島郡志)。織豊期の慶長四年(一五九九)には高信の四代の孫泰監が神主となり以後代々続いたという(高島郡志)。年代が合わないが、佐々木高島氏が神職を継承したという系譜伝承と解釈できる。
 宇喜多氏の佐々木一族という系譜伝承は、佐々木加地氏の本拠備前児島の出身というだけではなく、名字の地が近江にあったからと考えられる。備前に名字の地がないのであれば、宇喜多氏が「浮田」ではなく「宇喜多」を名乗ることからも、近江高島郡宇伎多神社の社名によるからと考えられる。
 宇喜多氏を三条中将の子孫とする系譜伝承は、嘉吉の乱(一四四一)後に三条家領近江浅井郡丁野に蟄居した赤松時勝の時代に、宇喜多氏が赤松氏に仕えたことを隠喩していよう。三条家落胤説は近江浅井氏と同様であり、時勝の近江浅井郡蟄居時代に赤松氏に仕えた可能性は高い。それが宇喜多五郎右衛門入道宝昌であろう。
 時勝の子赤松政則は、長禄の変で赤松氏遺臣が後南朝を鎮圧した功績で、加賀半国守護として赤松氏を再興させ、さらに播磨・備前・美作三国守護に復帰したが、宇喜多氏が資料に登場するのは、それ以後の応仁・文明の乱の時期である。
 宇喜多氏初見の資料は、前述の文明元年五月十六日付宇喜多五郎右衛門入道宝昌寄進状であり、宝昌は金岡東庄成光寺来迎免名主職を西大寺に寄進した。また文明九年の宇喜多宝昌寄進状によれば、豊原荘邑久郷にも所領を有していたことが確認できる。前述の邑久弘法寺過去帳位牌によれば、小島方の在所が邑久郷であり、邑久郷は佐々木小島氏に由来する所領と考えられる。沙弥宝昌の子三郎右衛門宗家が備前小島氏の女婿になり、三宅姓宇喜多氏を称したと考えられる。
 宇喜多氏の出自については、近江説と備前児島説の両者を念頭に置きつつ、宇喜多入道宝昌以前の動向を探る必要がある。名字の地で判断するならば、宇喜多氏は近江出自である。また宇喜多氏が名乗る三宅氏も、近江三宅氏(藤原姓)か備前三宅氏か、あるいは備前に至り備前三宅氏を継承したのか、注意深く考察する必要がある。可能性が広がった分、調査対象も広がり、宝昌以前の宇喜多氏の動向が明らかになる可能性も高まったといえる。

【参考文献】
立石定夫『戦国宇喜多一族』新人物往来社、一九八八年。
渡辺大門『宇喜多直家・秀家』ミネルヴァ書房、二〇一一年。
『日本歴史地名体系』平凡社。

この記事へのコメント

山本
2016年08月07日 23:57
飯嶋和一「始祖鳥記」のモデルで、日本で初めて空を飛んだとされる浮田幸吉は備前国児島郡の出身である。

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