近江尼子氏の系譜
足利尊氏から佐々木導誉(京極高氏)へ康永四年(一三四五)に給付された近江国甲良庄尼子郷について、「ミま」に譲与する内容の佐々木導誉置文がある。「ミま」は、まだ若いのだから百二十年後まで生き残るであろうと述べられているので、若い人物であろう。これは、国立国会図書館所蔵「伊予佐々木文書」所収の応安六年(一三七三)二月二十七日付治部少輔宛導誉置文(解題第六巻110)である。
これに京極高秀(治部少輔)は、正(五か)月二十六日付佐々木隠岐入道宛京極高秀(解題115)で、尼子郷が最良の土地と考えており、百二十年後まで尼子郷については何も心配はいらないので、ご安心なさるよう御披露下さいと返事している。さらに高島郡中庄も給付している。また在所についても屋形と近いが四方の壁の作事を許すことが述べられている。高秀に「ミま」を討たないことを保証したものであろう。実は高秀には、長兄秀綱の孫秀頼(近江守秀綱の孫)の家督相続を支持した守護代吉田厳覚を討った前歴がある。「ミま」側が警戒したのだろう。また尼子郷であれば導誉がつくった時衆道場が近くていいとも述べられているので、時衆とも関係する人物と分かる。
導誉┬秀綱―秀詮―秀頼
├秀宗
└高秀(治部少輔)┬高詮―高光―持清
└秀久(六郎左衛門・刑部少輔)
京極高秀書状の宛先佐々木隠岐入道が、「ミま」の後見人と分かる。佐々木隠岐入道は、鎌倉幕府滅亡時に六波羅探題北条仲時とともに近江番場蓮華寺で自害した隠岐守護佐々木清高の兄弟と、その子孫たちである。京極氏のもとで守護代を勤めていた。
永和五年(一三七九)三月八日付足利義満御判御教書(解題第六巻111)で、将軍義満は尼子郷を、導誉の譲状に任せて、後家尼「留阿(北と号す)」の領掌に相違ないことを認めた。留阿は時衆による法名と考えられる。導誉が四条道場に土地を寄進したので、留阿が時衆に帰依したのか、留阿が時衆に帰依していたから導誉が京都四条道場に所領を寄進したのか、どちらかは判断できないが、導誉の時衆保護と妻(北方)留阿の時衆帰依は関係があるだろう。
応永五年(一三九八)六月一日付導誉後家きた譲状(解題第六巻112)で、きたは導誉の譲状証文に任せて、尼子郷を佐々木六郎左衛門に永代譲与し、一期の後は「いや六」へ伝えるよう譲状を与えた。導誉の譲状に任せて佐々木六郎左衛門尉に譲与するのだから、「ミま」はこの佐々木六郎左衛門尉だろう。またもうひとつの同日付きた譲状(解題第六巻113)では、「いや六殿へかたく御ゆつり候べく候」と記すとともに、「たけどうしこ」にもいかほどにても御計らいあるよう譲状を記した。佐々木六郎左衛門尉の家督が「いや六」で、二男が「たけどうしこ」であろう。
弥六は孫あるいは曾孫の六郎という意味であり、導誉の北方の孫(曾孫)にあたる六郎という意味で、六郎左衛門の子と考えられる。また竹童子は弥六の弟で、のち出雲守護代となる尼子四郎左衛門尉であろう。系図で持久とされる人物である。
導誉の譲状に任せて尼子郷を譲与された佐々木六郎左衛門は、導誉譲状に見える「ミま」であろう。米原正義は「ミま」を佐々木六郎左衛門と推定しているが(米原正義『出雲尼子一族』新装版、新人物往来社、一九九六年、二九頁)。『国立国会図書館所蔵貴重書解題』第六巻も「孫の六郎左衛門」とする。それに対して『滋賀県の地名』(日本歴史地名体系25)の尼子郷の項で「導誉の妻北か」と推定しており、森茂暁は導誉がわざわざ高秀に保護を依頼していることに注目して、高秀の子ではなく、後家北(留阿)だろうと推測している(森茂暁『佐々木導誉』人物叢書、吉川弘文館、一九九四年、一七〇―三頁)。このような混乱が生じる理由として、義満御教書で、導誉の譲状に任せて導誉後家留阿(北と号す)の領掌にまかせることを述べる一方で、「きた」譲状では導誉の譲状に任せて六郎左衛門に譲るとあるため、導誉譲状にある「ミま」をどちらとも解釈できるからである。
おそらく導誉譲状でいう「ミま」は六郎左衛門であり、留阿はその母であろう。そのため義満は導誉の譲状にまかせて相続すべき「ミま」の母留阿(北)が領掌することを認め、きた譲状で留阿は導誉の譲状に任せて「ミま」(六郎左衛門)が永代譲与したと考えられる。ただし高秀に対して「ミま」に身寄りがないと述べていることから、高秀の実子とは考えにくい。導誉の後妻留阿の子を、形式的に高秀の実子とした可能性がある。
さらに明徳三年(一三九二)七月五日付京極高詮安堵状(解題116)で、六郎左衛門尉は出雲大原郡内近松庄を安堵されている。また年未詳十月二十七日付京極道通(高光)書状(解題117)で、飛騨国司退治の恩賞である飛騨国古川郷内快与名が尼子六郎左衛門尉に給付されている。応永二十四年(一四一七)四月二十五日付某譲状で、弥童子に飛騨国古川郷快与名が譲られ、前述の京極高光書状が副えられている。この弥童子が孫六である。譲状を記した尼子某は六郎左衛門尉であろう。これで六郎左衛門の花押が判明した。
さらに応永二十九年(一四二二)五月四日付足利義持御判御教書(解題114)で尼子郷の当知行分の相伝が刑部少輔秀久に認められた。このときまでに六郎左衛門尉から刑部少輔に補任されていた。また実名が秀久と分かる。系図では高秀の三男尼子高久を佐々木六郎左衛門尉・刑部少輔としており、秀久と高久は同一人物とみられる。系図に示すと以下のとおりである。
京極高秀―尼子六郎左衛門尉秀久(刑部少輔)―弥六
秀久に永代譲与された尼子郷は弥六へ譲与が確約され、さらに飛騨国古川郷快与名も相伝した。また尼子氏の幼名は「弥」の字を用い、通称が「六郎」であったと分かる。そうであれば出自が不明だが、席次から京極庶流と分かる奉公衆佐々木六郎国貞や又六郎秀貞は、近江尼子氏であろう。
「永享行幸記」によれば永享九年(一四三七)十月二十一日天皇の室町第行幸では、足利義教が迎えに参内したが、佐々木九郎秀直(のち治部少輔)と佐々木六郎国貞が帯刀十一番を勤めている。この六郎国貞が「きた」譲状で「いや六」と呼ばれていた人物だろう。秀久譲状では「弥どうし子」と記されている。九郎秀直は高秀の末子京極多田満秀(佐渡入道祐繁)の子と考えられる。
この時期、出雲尼子氏の活動も見られる。日御碕神社文書所収の永享十一年(一四三九)十一月日付日御崎社一神子重申状案(新修島根県史大社七〇六号)で「一正長元年十月十七日并当年正月六日、国造卒大勢、御崎仁令発向、種々狼藉、以外之間、尼子四郎左衛門尉殿雖有御成敗、更無承引、結句重而令乱入、舟別棟別等押取之条、言語道断悪行也、」とあり、尼子四郎左衛門尉が見える。前述の竹童子が成長した姿であろう。系図でいう尼子持久である。同状案で尼子四郎左衛門尉以前の守護代が宇賀野殿であったこともわかる。この宇賀野殿は高秀の子九郎左衛門尉高雅と考えられる。
また集古文書所収の享徳元年(一四五二)十一月十二日付牛尾三河守宛尼子清貞書状写があり、当時尼子清貞が出雲守護代であったことが分かる。群書類従所収佐々木系図では尼子清定とするが、資料では「清貞」である。近江尼子氏との間に通字の関係がある。
小野家文書所収の(康正二年)七月二日付又四郎宛京極持清書状(新修島根県史大社七四六号)の宛先又四郎が尼子清貞であろう。又四郎という通称から尼子四郎左衛門尉の子と分かる。日御碕神社文書所収の康正二年(一四五六)七月二十日付三沢対馬(為信)宛尼子清貞書状(大社七五〇号)で、前述の又四郎が尼子清貞であると再確認できる。
小野家文書所収の同年十二月一日付京極氏奉行人連署奉書案(大社七五三号)で、宛先の筆頭に尼子殿御代官とあるように、清貞がまだ幼少であったと考えられる。しかし応仁二年(一四六八)までには刑部少輔に補任されていることが、東大史料編纂所影写本佐々木文書所収の応仁二年七月六日付尼子刑部少輔宛京極生観(持清)感状で分かる。以後、尼子刑部少輔と資料に見える。祖父秀久の官途を得たことになる。
続群書類従本佐々木系図の一本で初期尼子氏の実名を記さず、尼子高久(資料では秀久)の長男近江尼子氏を出羽守、二男出雲尼子氏を上野介と記し、上野介の子を刑部少輔と記すものがある。初期尼子氏の実名がすでに不分明になっていたのだろう。そのため系図で「持久」とされている出雲尼子氏初代の尼子四郎左衛門尉の実名は不明とした方が、資料を探しやすいと考えられる。初期尼子氏の資料が少ないのは、系図に記された実名に引きずられて、資料を見落としているからとも考えられる。
再び近江尼子氏に目を転じると、寛正六年(一四六五)八月十五日の八幡放生会では、足利義政が乗る車前の帯刀のひとりに佐々木又六秀貞が見え、京極庶流や隠岐佐々木氏など佐々木一族の筆頭に記されている。国持大名ではないが、外様の格式である。これまで佐々木六郎国貞と佐々木又六秀貞が尼子氏と特定できなかったため、近江尼子氏の動向が不明であったが、これで室町期の近江尼子氏の動向が分かる。系図に示すと以下のとおりである。
刑部少輔秀久(六郎左衛門尉)―六郎国貞(弥六)―又六郎秀貞
諱字「貞」は近江尼子氏の通字であり、出雲守護代尼子清貞とも通字になっている。この時期の尼子氏の通字が「貞」であり、南北朝初期の出雲守護塩冶高貞(義清流隠岐佐々木氏)の子孫という系譜伝承も生まれた。あるいは実際に、塩冶高貞と血縁関係にあった可能性もある。そうであれば、「ミま」に身寄りがなかったことも理解できる。
沙沙貴神社所蔵佐々木系図では塩冶高貞―富田秀貞―直貞―尼子清貞という系譜を記すが、これは出雲守護の地位の継承を示した職掌相伝の系図といえる。とくに出雲守護富田氏の子孫とするのは出雲尼子氏が出雲月山富田城を根拠にしたことによろう。また清貞自らが出雲支配の正当性を主張するために、出雲旧守護家である義清流佐々木氏の塩冶・富田両氏の系譜を名乗ったとも考えられる。
ところで又六秀貞には子がなかったようで、年未詳九月二十八日付道善譲状(一二〇号)で、又六秀貞に対して「仍万一無子候間、兄弟可有親類之間相続」と述べている。道善は国貞であろう。秀貞に子がない場合、兄弟同族に相続させるよう伝えている。
そして文明二年(一四七〇)四月十六日付道善譲状は「佐々木弥六」に当てて、尼子郷を一円不輸の郷として譲与し、出雲大原郷近松庄千巻村を譲与し、これまでの譲状証文など一切を譲与するという譲状を送った。又六秀貞が没したのだろう。
『長興宿禰記』文明十八年(一四八六)七月二十九日条で、足利義尚大将拝賀式に佐々木尼子宮内少輔長綱が京極加賀政数らとともに列している。この宮内少輔長綱が弥六だろう。「貞」の字を使用しないことから庶子から家督になった可能性もある。
長享二年(一四八八)京極政経が小倉氏の望み通り尼子郷半分の代官職を与えている(京都大学文学部博物館所蔵来田文書所蔵の長享二年八月三日多賀経家書状)。このとき政経は近江伊香郡松尾で京極高清と戦い、家臣多賀経家とともに伊勢梅津へ逃れた。翌延徳元年(一四八九)近江国人衆の協力を得て高清を追放し、延徳二年(一四九〇)には幕府から近江守護に補任されるが、明応元年(一四九二)十二月に足利義稙によって家督を取り上げられた。翌年の明応の政変で義稙が失脚すると政経が復帰した。京極高清は舅斎藤妙純の支援を得て北近江に進出し、政経は六角高頼と結んだ。こののち尼子氏も六角方として活動する。
天文二十四年(一五五五)の多賀大社梵鐘の刻銘に「佐々木宮内少輔賢誉」の名があり、浅井長政の幼名浅井猿夜叉も見られる。この佐々木賢誉は、近江尼子氏の世襲官途宮内少輔を名乗ることから長綱の子孫であろう。浅井氏の外戚近江尼子氏と考えられる。近江尼子氏は六角氏に従い、六角義賢(承禎)の一字書出を給付されている。
また、六角氏旧臣石部家清が永禄十一年(一五六八)の箕作落城後も六角承禎に従った者の菩提を弔った、慶長三年(一五九八)十一月二十六日付石部右馬允平家清法名掛軸(石部善隆寺文書)に、「尼子宮内少輔宗澄七月廿六日」と見える。宗澄の通称は六郎左衛門であり、天正十二年(一五八四)四月小牧の戦いでは豊臣秀吉の馬廻組頭として組士を引率して従軍し(浅野家文書)、翌十三年(一四八五)七月十一日には中村一氏・大谷吉継らとともに叙爵されて、従五位下宮内少輔に叙任された(歴名土代)。六角承禎没洛後に豊臣秀吉に仕えたことが分かる。
さらに連枝と考えられる尼子三郎左衛門も豊臣秀吉馬廻組頭で、天正十八年(一五九〇)小田原の陣で組士七五〇人を引率して従軍している(伊達家文書)。文禄元年(一五九二)肥前名護屋の陣でも五番組頭として本丸広間を警備し(太閤記)、番衆には進藤新次郎や永原孫左衛門尉・山岡修理亮・河毛二郎左衛門尉など近江衆も見られる。宮内少輔から三郎左衛門に近江尼子氏の中心が移っており、宮内少輔宗澄が天正十八年までに没したと考えられる。三郎左衛門は、同四年正月秀吉の草津湯治では宮木藤左衛門と上野落合宿を警備している(浅野家文書)。尼子三郎左衛門は千利休切腹の検使とも伝えられる(千利休由緒書・武辺咄聞書)。三郎左衛門はのちに藤堂高虎に仕え、『高山様御世分限帳寛永七年正月』に母衣組千五百石尼子三郎左衛門が見える。
また藤堂出雲組伊賀付に二百石物成尼子六郎左衛門が見える。豊臣秀次の馬廻衆尼子寿千寺が秀次謀反事件で失脚した後、やはり秀次旧臣であった藤堂高虎に仕官したと考えられる。六郎左衛門と名乗るのであれば、宗澄の子であろう。
このように見てくると、伊予佐々木文書は近江尼子氏の所領相伝に関わる文書群であり、近江尼子氏に伝えられたものと考えられる。
これに京極高秀(治部少輔)は、正(五か)月二十六日付佐々木隠岐入道宛京極高秀(解題115)で、尼子郷が最良の土地と考えており、百二十年後まで尼子郷については何も心配はいらないので、ご安心なさるよう御披露下さいと返事している。さらに高島郡中庄も給付している。また在所についても屋形と近いが四方の壁の作事を許すことが述べられている。高秀に「ミま」を討たないことを保証したものであろう。実は高秀には、長兄秀綱の孫秀頼(近江守秀綱の孫)の家督相続を支持した守護代吉田厳覚を討った前歴がある。「ミま」側が警戒したのだろう。また尼子郷であれば導誉がつくった時衆道場が近くていいとも述べられているので、時衆とも関係する人物と分かる。
導誉┬秀綱―秀詮―秀頼
├秀宗
└高秀(治部少輔)┬高詮―高光―持清
└秀久(六郎左衛門・刑部少輔)
京極高秀書状の宛先佐々木隠岐入道が、「ミま」の後見人と分かる。佐々木隠岐入道は、鎌倉幕府滅亡時に六波羅探題北条仲時とともに近江番場蓮華寺で自害した隠岐守護佐々木清高の兄弟と、その子孫たちである。京極氏のもとで守護代を勤めていた。
永和五年(一三七九)三月八日付足利義満御判御教書(解題第六巻111)で、将軍義満は尼子郷を、導誉の譲状に任せて、後家尼「留阿(北と号す)」の領掌に相違ないことを認めた。留阿は時衆による法名と考えられる。導誉が四条道場に土地を寄進したので、留阿が時衆に帰依したのか、留阿が時衆に帰依していたから導誉が京都四条道場に所領を寄進したのか、どちらかは判断できないが、導誉の時衆保護と妻(北方)留阿の時衆帰依は関係があるだろう。
応永五年(一三九八)六月一日付導誉後家きた譲状(解題第六巻112)で、きたは導誉の譲状証文に任せて、尼子郷を佐々木六郎左衛門に永代譲与し、一期の後は「いや六」へ伝えるよう譲状を与えた。導誉の譲状に任せて佐々木六郎左衛門尉に譲与するのだから、「ミま」はこの佐々木六郎左衛門尉だろう。またもうひとつの同日付きた譲状(解題第六巻113)では、「いや六殿へかたく御ゆつり候べく候」と記すとともに、「たけどうしこ」にもいかほどにても御計らいあるよう譲状を記した。佐々木六郎左衛門尉の家督が「いや六」で、二男が「たけどうしこ」であろう。
弥六は孫あるいは曾孫の六郎という意味であり、導誉の北方の孫(曾孫)にあたる六郎という意味で、六郎左衛門の子と考えられる。また竹童子は弥六の弟で、のち出雲守護代となる尼子四郎左衛門尉であろう。系図で持久とされる人物である。
導誉の譲状に任せて尼子郷を譲与された佐々木六郎左衛門は、導誉譲状に見える「ミま」であろう。米原正義は「ミま」を佐々木六郎左衛門と推定しているが(米原正義『出雲尼子一族』新装版、新人物往来社、一九九六年、二九頁)。『国立国会図書館所蔵貴重書解題』第六巻も「孫の六郎左衛門」とする。それに対して『滋賀県の地名』(日本歴史地名体系25)の尼子郷の項で「導誉の妻北か」と推定しており、森茂暁は導誉がわざわざ高秀に保護を依頼していることに注目して、高秀の子ではなく、後家北(留阿)だろうと推測している(森茂暁『佐々木導誉』人物叢書、吉川弘文館、一九九四年、一七〇―三頁)。このような混乱が生じる理由として、義満御教書で、導誉の譲状に任せて導誉後家留阿(北と号す)の領掌にまかせることを述べる一方で、「きた」譲状では導誉の譲状に任せて六郎左衛門に譲るとあるため、導誉譲状にある「ミま」をどちらとも解釈できるからである。
おそらく導誉譲状でいう「ミま」は六郎左衛門であり、留阿はその母であろう。そのため義満は導誉の譲状にまかせて相続すべき「ミま」の母留阿(北)が領掌することを認め、きた譲状で留阿は導誉の譲状に任せて「ミま」(六郎左衛門)が永代譲与したと考えられる。ただし高秀に対して「ミま」に身寄りがないと述べていることから、高秀の実子とは考えにくい。導誉の後妻留阿の子を、形式的に高秀の実子とした可能性がある。
さらに明徳三年(一三九二)七月五日付京極高詮安堵状(解題116)で、六郎左衛門尉は出雲大原郡内近松庄を安堵されている。また年未詳十月二十七日付京極道通(高光)書状(解題117)で、飛騨国司退治の恩賞である飛騨国古川郷内快与名が尼子六郎左衛門尉に給付されている。応永二十四年(一四一七)四月二十五日付某譲状で、弥童子に飛騨国古川郷快与名が譲られ、前述の京極高光書状が副えられている。この弥童子が孫六である。譲状を記した尼子某は六郎左衛門尉であろう。これで六郎左衛門の花押が判明した。
さらに応永二十九年(一四二二)五月四日付足利義持御判御教書(解題114)で尼子郷の当知行分の相伝が刑部少輔秀久に認められた。このときまでに六郎左衛門尉から刑部少輔に補任されていた。また実名が秀久と分かる。系図では高秀の三男尼子高久を佐々木六郎左衛門尉・刑部少輔としており、秀久と高久は同一人物とみられる。系図に示すと以下のとおりである。
京極高秀―尼子六郎左衛門尉秀久(刑部少輔)―弥六
秀久に永代譲与された尼子郷は弥六へ譲与が確約され、さらに飛騨国古川郷快与名も相伝した。また尼子氏の幼名は「弥」の字を用い、通称が「六郎」であったと分かる。そうであれば出自が不明だが、席次から京極庶流と分かる奉公衆佐々木六郎国貞や又六郎秀貞は、近江尼子氏であろう。
「永享行幸記」によれば永享九年(一四三七)十月二十一日天皇の室町第行幸では、足利義教が迎えに参内したが、佐々木九郎秀直(のち治部少輔)と佐々木六郎国貞が帯刀十一番を勤めている。この六郎国貞が「きた」譲状で「いや六」と呼ばれていた人物だろう。秀久譲状では「弥どうし子」と記されている。九郎秀直は高秀の末子京極多田満秀(佐渡入道祐繁)の子と考えられる。
この時期、出雲尼子氏の活動も見られる。日御碕神社文書所収の永享十一年(一四三九)十一月日付日御崎社一神子重申状案(新修島根県史大社七〇六号)で「一正長元年十月十七日并当年正月六日、国造卒大勢、御崎仁令発向、種々狼藉、以外之間、尼子四郎左衛門尉殿雖有御成敗、更無承引、結句重而令乱入、舟別棟別等押取之条、言語道断悪行也、」とあり、尼子四郎左衛門尉が見える。前述の竹童子が成長した姿であろう。系図でいう尼子持久である。同状案で尼子四郎左衛門尉以前の守護代が宇賀野殿であったこともわかる。この宇賀野殿は高秀の子九郎左衛門尉高雅と考えられる。
また集古文書所収の享徳元年(一四五二)十一月十二日付牛尾三河守宛尼子清貞書状写があり、当時尼子清貞が出雲守護代であったことが分かる。群書類従所収佐々木系図では尼子清定とするが、資料では「清貞」である。近江尼子氏との間に通字の関係がある。
小野家文書所収の(康正二年)七月二日付又四郎宛京極持清書状(新修島根県史大社七四六号)の宛先又四郎が尼子清貞であろう。又四郎という通称から尼子四郎左衛門尉の子と分かる。日御碕神社文書所収の康正二年(一四五六)七月二十日付三沢対馬(為信)宛尼子清貞書状(大社七五〇号)で、前述の又四郎が尼子清貞であると再確認できる。
小野家文書所収の同年十二月一日付京極氏奉行人連署奉書案(大社七五三号)で、宛先の筆頭に尼子殿御代官とあるように、清貞がまだ幼少であったと考えられる。しかし応仁二年(一四六八)までには刑部少輔に補任されていることが、東大史料編纂所影写本佐々木文書所収の応仁二年七月六日付尼子刑部少輔宛京極生観(持清)感状で分かる。以後、尼子刑部少輔と資料に見える。祖父秀久の官途を得たことになる。
続群書類従本佐々木系図の一本で初期尼子氏の実名を記さず、尼子高久(資料では秀久)の長男近江尼子氏を出羽守、二男出雲尼子氏を上野介と記し、上野介の子を刑部少輔と記すものがある。初期尼子氏の実名がすでに不分明になっていたのだろう。そのため系図で「持久」とされている出雲尼子氏初代の尼子四郎左衛門尉の実名は不明とした方が、資料を探しやすいと考えられる。初期尼子氏の資料が少ないのは、系図に記された実名に引きずられて、資料を見落としているからとも考えられる。
再び近江尼子氏に目を転じると、寛正六年(一四六五)八月十五日の八幡放生会では、足利義政が乗る車前の帯刀のひとりに佐々木又六秀貞が見え、京極庶流や隠岐佐々木氏など佐々木一族の筆頭に記されている。国持大名ではないが、外様の格式である。これまで佐々木六郎国貞と佐々木又六秀貞が尼子氏と特定できなかったため、近江尼子氏の動向が不明であったが、これで室町期の近江尼子氏の動向が分かる。系図に示すと以下のとおりである。
刑部少輔秀久(六郎左衛門尉)―六郎国貞(弥六)―又六郎秀貞
諱字「貞」は近江尼子氏の通字であり、出雲守護代尼子清貞とも通字になっている。この時期の尼子氏の通字が「貞」であり、南北朝初期の出雲守護塩冶高貞(義清流隠岐佐々木氏)の子孫という系譜伝承も生まれた。あるいは実際に、塩冶高貞と血縁関係にあった可能性もある。そうであれば、「ミま」に身寄りがなかったことも理解できる。
沙沙貴神社所蔵佐々木系図では塩冶高貞―富田秀貞―直貞―尼子清貞という系譜を記すが、これは出雲守護の地位の継承を示した職掌相伝の系図といえる。とくに出雲守護富田氏の子孫とするのは出雲尼子氏が出雲月山富田城を根拠にしたことによろう。また清貞自らが出雲支配の正当性を主張するために、出雲旧守護家である義清流佐々木氏の塩冶・富田両氏の系譜を名乗ったとも考えられる。
ところで又六秀貞には子がなかったようで、年未詳九月二十八日付道善譲状(一二〇号)で、又六秀貞に対して「仍万一無子候間、兄弟可有親類之間相続」と述べている。道善は国貞であろう。秀貞に子がない場合、兄弟同族に相続させるよう伝えている。
そして文明二年(一四七〇)四月十六日付道善譲状は「佐々木弥六」に当てて、尼子郷を一円不輸の郷として譲与し、出雲大原郷近松庄千巻村を譲与し、これまでの譲状証文など一切を譲与するという譲状を送った。又六秀貞が没したのだろう。
『長興宿禰記』文明十八年(一四八六)七月二十九日条で、足利義尚大将拝賀式に佐々木尼子宮内少輔長綱が京極加賀政数らとともに列している。この宮内少輔長綱が弥六だろう。「貞」の字を使用しないことから庶子から家督になった可能性もある。
長享二年(一四八八)京極政経が小倉氏の望み通り尼子郷半分の代官職を与えている(京都大学文学部博物館所蔵来田文書所蔵の長享二年八月三日多賀経家書状)。このとき政経は近江伊香郡松尾で京極高清と戦い、家臣多賀経家とともに伊勢梅津へ逃れた。翌延徳元年(一四八九)近江国人衆の協力を得て高清を追放し、延徳二年(一四九〇)には幕府から近江守護に補任されるが、明応元年(一四九二)十二月に足利義稙によって家督を取り上げられた。翌年の明応の政変で義稙が失脚すると政経が復帰した。京極高清は舅斎藤妙純の支援を得て北近江に進出し、政経は六角高頼と結んだ。こののち尼子氏も六角方として活動する。
天文二十四年(一五五五)の多賀大社梵鐘の刻銘に「佐々木宮内少輔賢誉」の名があり、浅井長政の幼名浅井猿夜叉も見られる。この佐々木賢誉は、近江尼子氏の世襲官途宮内少輔を名乗ることから長綱の子孫であろう。浅井氏の外戚近江尼子氏と考えられる。近江尼子氏は六角氏に従い、六角義賢(承禎)の一字書出を給付されている。
また、六角氏旧臣石部家清が永禄十一年(一五六八)の箕作落城後も六角承禎に従った者の菩提を弔った、慶長三年(一五九八)十一月二十六日付石部右馬允平家清法名掛軸(石部善隆寺文書)に、「尼子宮内少輔宗澄七月廿六日」と見える。宗澄の通称は六郎左衛門であり、天正十二年(一五八四)四月小牧の戦いでは豊臣秀吉の馬廻組頭として組士を引率して従軍し(浅野家文書)、翌十三年(一四八五)七月十一日には中村一氏・大谷吉継らとともに叙爵されて、従五位下宮内少輔に叙任された(歴名土代)。六角承禎没洛後に豊臣秀吉に仕えたことが分かる。
さらに連枝と考えられる尼子三郎左衛門も豊臣秀吉馬廻組頭で、天正十八年(一五九〇)小田原の陣で組士七五〇人を引率して従軍している(伊達家文書)。文禄元年(一五九二)肥前名護屋の陣でも五番組頭として本丸広間を警備し(太閤記)、番衆には進藤新次郎や永原孫左衛門尉・山岡修理亮・河毛二郎左衛門尉など近江衆も見られる。宮内少輔から三郎左衛門に近江尼子氏の中心が移っており、宮内少輔宗澄が天正十八年までに没したと考えられる。三郎左衛門は、同四年正月秀吉の草津湯治では宮木藤左衛門と上野落合宿を警備している(浅野家文書)。尼子三郎左衛門は千利休切腹の検使とも伝えられる(千利休由緒書・武辺咄聞書)。三郎左衛門はのちに藤堂高虎に仕え、『高山様御世分限帳寛永七年正月』に母衣組千五百石尼子三郎左衛門が見える。
また藤堂出雲組伊賀付に二百石物成尼子六郎左衛門が見える。豊臣秀次の馬廻衆尼子寿千寺が秀次謀反事件で失脚した後、やはり秀次旧臣であった藤堂高虎に仕官したと考えられる。六郎左衛門と名乗るのであれば、宗澄の子であろう。
このように見てくると、伊予佐々木文書は近江尼子氏の所領相伝に関わる文書群であり、近江尼子氏に伝えられたものと考えられる。
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