2010年東大前期・国語第4問「詩人に必要なもの」
極めて常識的なことだが、もし詩人が自ら体験し、生活してきた事からだけ感動をひきだし、それを言葉に移すことに終始していたならば、ア詩人なんてものは、人間にとって、あってもなくても一向にさしつかえのないつまらないものになるだろう。詩が私たちに必要なのは、そこに詩人の想像力というものがはたらいているからであって、それが無いと、謂うところの実感をも普遍的なものにすることはできない。しかし、場合によっては、その想像力が、作者よりも読者の方により多くあってそのはたらきかけによって、作者をはなれて、作者と読者の中間に、あらかじめ計画されたものではないという意味において、一つの純粋な詩の世界をかいま見せるときがある。生なままで放り出されている実感が、受けとる側に、構築されたものとして、たしかな手ごたえをあたえるのはそういう場合である。私たちは、読者にあるこのような想像力の作用が、ときに、眼前にある物や、日常次元にある平凡な実感に、積極的な詩の力をあたえ、それらを変質させてしまう場合があることをみとめなければならない。それと同時に、またこの関係が逆になっているときのことも考えることができる。すなわち、一見、豊富な想像力と、多彩なイメージによって構築されているように見える作品が、これも読者に想像力があるために、そのはたらきかけによって、内質は日常次元の平凡な生活感情にすぎないことを、たちどころに看破されている場合もあるのである。現代詩は難解などと云って、詩を理解する力のないことを、さも謙虚そうに告白している人が、イまったく嘘をついているように私に思えるのは、それによって、彼らがすべての作品の質を習慣的に選別し、自らの立場においてそれを受け入れたり、突き放したりしている、この彼らの中にある想像力に対する自信を喪失してしまった形跡が見えないからだ。それはときに、すきまなく重層して硬く鱗質化してしまったようなイメージの中へ浸透していって、それをぐらぐらに解体させる。
想像力は、それが外見は恣意的に八方に拡散しているように見えるときでも、必ずある方向性を持っている。ただそれは明白な観念や思想のように、直線コースにおいて目標を指示していないから、ときに無方向に見えたり、無統一に見えたりするだけである。詩における想像力は、目標に向かって直進する時期においてよりも、むしろ目標から逆行する時間もふくんだ極端なジグザグコースにおいて、その本来の機能を発揮するものだとさえ考えてよいだろう。想像力の中にある方向とは、このような蛇行状態の中にある意志のようなものであって、目標から背を向けて動いている筋肉のする部分において、その目標をより確実にひきつけているのである。あたかもガラガラ蛇の行進のごとくにだ。現代詩が、一たび、イメージによって考えるということを重視したからには、イメージとイメージがぶつかり、屈折して進行してゆく状態の中に、思想や観念によって考える場合にかんたんに切りすてられるこの目標から背馳する力が作用しながら、それが、究極において、作者の想像力に一定の方向と思想性さえあたえるというこの関係を、ウ詩の力学として、詩人はしっかりとつかんでいなければならない。個別的に分析すると、救いがたいニヒリズムに通じるような否定的なくらいイメージの一つ一つが、重層し、錯綜し、屈折しながら進行してゆく過程で総合され、最後的に読者の世一心にそれが達するときは、ケミカルな変化をとげていて、逆に人間に大きな希望と勇気をあたえる要素となっている場合を考えれば、凡そ詩において、想像力というものはいかなるはたらきをしているかが理解できるだろう。しかし、この否定的なモメントの中に肯定的なモメントを、暗さの中にある明るさを(その逆の場合もあるが)、それをとらえることができるのも、詩人の方だけでなく読者の側にもその想像力というものがあるからで、むしろ重大なのはこの方ではないだろうか。私は、現代の詩人は、読者もまた持っているところのこの想像力という能力の計量を、その方法の出発においていくらかあやまっているように思えてならない。
ここにおいて、再び問題になってくるのは経験である。あるいは経験の質だと云おう。強烈な想像力は、直接経験したことがらを超越するという意味において、現実の次元からとび出すことは可能であっても、エその現実の中での経験の質的な核を破壊することはできない。かりに宇宙というイデーをそこにぶっつけても、想像力の行動半径は、この経験の質的な核によって限定される。そして限定さているものであるために、私たちは、その想像力の実体というものを正確に計算することができるのである。どのような詩人の持っている想像力も、その意味で、いついかなる場合においても現実をふんまえ、敢えていえば、生活をひきずっているものであるといってよいだろう。したがって、想像力の実体をつきとめるということは、それがふんまえている現実を、生活現実をあからさまにするということに他ならない。 (小野十三郎『想像力』)
設問
(一)「詩人なんてものは、人間にとって、あってもなくても一向にさしつかえのないつまらないものになるだろう」(傍線部ア)とあるが、それはなぜか、説明せよ。
(二)「まったく嘘をついているように私に思える」(傍線部イ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。
(三)「詩の力学」(傍線部ウ)とはそういうことか、説明せよ。
(四)「その現実の中での経験の質的な核を破壊することはできない」(傍線部エ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。
【要約】
詩人が日常的なものだけから感動をひきだして詩を作るなら、ア「詩人なんてものは、人間にとって、あってもなくても一向にさしつかえのないつまらないものになるだろう」と筆者は述べている。筆者は、詩人に想像力を求めている。その一方で、詩人より読者に想像力があることもあると認めている。第一段落の後半である逆接の接続詞「しかし」の後は、読者の想像力について述べられている。詩が作者をはなれて、作者と読者の中間に純粋な詩の世界ができるときがある。読者の想像力が、ときに日常生活のものに積極的な詩の力をあたえることもある。また同時に、豊富な想像力と多彩なイメージによって作られているに見える作品が、想像力ある読者に、実は平凡な内容であると看破される場合もある。現代詩は難解などと謙虚そうに告白している人が、イ「まったく嘘をついているように私に思える」のは、彼らがすべての作品の質を習慣的に選別しており、自信を喪失してしまった形跡が見えないからだ。
このように第一段落に傍線部アとイがある。傍線部アは詩人には想像力が必要であること、傍線部イは読者が作者よりも想像力を有する場合があることが述べられている。
想像力は、恣意的に八方に拡散しているように見えも、必ずある方向性を持っている。ただそれは直線的に目標を指示していないから、ときに無方向に見える。むしろ目標から逆行する時間もふくんだ極端なジグザグな道程をたどることで本来の機能を発揮するとさえ考えてよいだろう。現代詩ではイメージとイメージがぶつかり、屈折して進行してゆく中で、思想や観念からはかんたんに切りすてられるような、目標から背馳する力が作用しながら、究極においては作者の想像力に一定の方向と思想性さえあたえる関係を、ウ「詩の力学」として、詩人はしっかりとつかんでいなければならない。この傍線部の直前の文がそのまま傍線部の意味内容である。
傍線部の後の文はそれを具体的に述べたものである。しかし逆接の接続詞「しかし」の後は、傍線部「詩の力学」をまとめている。否定的なモメントの中に肯定的なモメントを、暗さの中にある明るさをとらえることができるのも、詩人だけでなく読者の側にもその想像力があるからで、むしろ重大なのは読者の側に想像力があるということだ。そして筆者は、現代の詩人は、読者の想像力を見あやまっているように思われると述べる。
そして最後の段落だ。経験の質がテーマになる。強烈な想像力は、直接経験したことがらを超越するという意味において、現実の次元からとび出すことは可能であっても、エ「その現実の中での経験の質的な核を破壊することはできない」と筆者は述べる。たとえ宇宙を想像しても、想像力の行動半径は経験によって限定される。そして限定さているゆえに、私たちは、その想像力の実体を正確に知ることができると結んでいる。
(小野十三郎『想像力』)
【解説と解答】
(一)詩人が日常的なものだけから感動をひきだして詩を作るなら、傍線部ア「詩人なんてものは、人間にとって、あってもなくても一向にさしつかえのないつまらないものになるだろう」とあるのだから、傍線部の前の部分に注目しよう。また第一段落の前半が、傍線部から接続詞なしで続いているので、傍線部の言い換えだ。これをまとめよう。筆者は詩人に想像力を求めている。
【解答例】詩人には想像力が必要であり、日常の出来事をそのまま詩にするだけでは詩人である意味がないということ。
(二)第一段落の中ほどにある逆接の接続詞「しかし」の後は、読者の想像力について述べられている。詩が作者をはなれて、作者と読者の中間に純粋な詩の世界ができるときがある。読者の想像力が、ときに日常生活のものに積極的な詩の力をあたえることもある。また同時に、豊富な想像力と多彩なイメージによって作られているに見える作品が、想像力ある読者に、実は平凡な内容であると看破される場合もある。現代詩は難解などと謙虚そうに告白している人が、イ「まったく嘘をついているように私に思える」のは、彼らがすべての作品の質を習慣的に選別しており、自信を喪失してしまった形跡が見えないからだ。
【解答例】読者が詩人以上に想像力をもち、詩人の実力を見抜いているにもかかわらず、現代詩は難解だなどと謙遜してみせるから。
(三)傍線部ウの前で、詩の想像力は、直接目標に向かうのではなくジグザグな道程をたどると述べている。この傍線部の前をまとめるといい。傍線部に続く文はそれを具体的に述べたものだが、逆接の接続詞「しかし」の後は、傍線部「詩の力学」をまとめている。否定的なモメントの中に肯定的なモメントを、暗さの中にある明るさをとらえられるのも、詩人だけでなく読者の側にもその想像力があるからだとも述べている。ここも参考になる。
【解答例】まっすぐ表現するのではなく、闇の中に光というように逆のものを見出すことで、常識を破る内容を表現すること
(四)最後の段落では、経験の質がテーマになる。強烈な想像力は、直接経験したことを超越することは可能であっても、傍線部エ「その現実の中での経験の質的な核を破壊することはできない」と述べられており、さらに傍線部に続けて、想像は経験に裏打ちされており、経験に限定さているゆえに、私たちは想像力の実体を正確に知ることができると結んでいる。傍線部の前後を自分の言葉に替えてまとめよう。
【解答例】想像は現実を超えており一見すると経験とは無関係に見えるが、実は経験の延長であり、経験に基づいているということ。
想像力は、それが外見は恣意的に八方に拡散しているように見えるときでも、必ずある方向性を持っている。ただそれは明白な観念や思想のように、直線コースにおいて目標を指示していないから、ときに無方向に見えたり、無統一に見えたりするだけである。詩における想像力は、目標に向かって直進する時期においてよりも、むしろ目標から逆行する時間もふくんだ極端なジグザグコースにおいて、その本来の機能を発揮するものだとさえ考えてよいだろう。想像力の中にある方向とは、このような蛇行状態の中にある意志のようなものであって、目標から背を向けて動いている筋肉のする部分において、その目標をより確実にひきつけているのである。あたかもガラガラ蛇の行進のごとくにだ。現代詩が、一たび、イメージによって考えるということを重視したからには、イメージとイメージがぶつかり、屈折して進行してゆく状態の中に、思想や観念によって考える場合にかんたんに切りすてられるこの目標から背馳する力が作用しながら、それが、究極において、作者の想像力に一定の方向と思想性さえあたえるというこの関係を、ウ詩の力学として、詩人はしっかりとつかんでいなければならない。個別的に分析すると、救いがたいニヒリズムに通じるような否定的なくらいイメージの一つ一つが、重層し、錯綜し、屈折しながら進行してゆく過程で総合され、最後的に読者の世一心にそれが達するときは、ケミカルな変化をとげていて、逆に人間に大きな希望と勇気をあたえる要素となっている場合を考えれば、凡そ詩において、想像力というものはいかなるはたらきをしているかが理解できるだろう。しかし、この否定的なモメントの中に肯定的なモメントを、暗さの中にある明るさを(その逆の場合もあるが)、それをとらえることができるのも、詩人の方だけでなく読者の側にもその想像力というものがあるからで、むしろ重大なのはこの方ではないだろうか。私は、現代の詩人は、読者もまた持っているところのこの想像力という能力の計量を、その方法の出発においていくらかあやまっているように思えてならない。
ここにおいて、再び問題になってくるのは経験である。あるいは経験の質だと云おう。強烈な想像力は、直接経験したことがらを超越するという意味において、現実の次元からとび出すことは可能であっても、エその現実の中での経験の質的な核を破壊することはできない。かりに宇宙というイデーをそこにぶっつけても、想像力の行動半径は、この経験の質的な核によって限定される。そして限定さているものであるために、私たちは、その想像力の実体というものを正確に計算することができるのである。どのような詩人の持っている想像力も、その意味で、いついかなる場合においても現実をふんまえ、敢えていえば、生活をひきずっているものであるといってよいだろう。したがって、想像力の実体をつきとめるということは、それがふんまえている現実を、生活現実をあからさまにするということに他ならない。 (小野十三郎『想像力』)
設問
(一)「詩人なんてものは、人間にとって、あってもなくても一向にさしつかえのないつまらないものになるだろう」(傍線部ア)とあるが、それはなぜか、説明せよ。
(二)「まったく嘘をついているように私に思える」(傍線部イ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。
(三)「詩の力学」(傍線部ウ)とはそういうことか、説明せよ。
(四)「その現実の中での経験の質的な核を破壊することはできない」(傍線部エ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。
【要約】
詩人が日常的なものだけから感動をひきだして詩を作るなら、ア「詩人なんてものは、人間にとって、あってもなくても一向にさしつかえのないつまらないものになるだろう」と筆者は述べている。筆者は、詩人に想像力を求めている。その一方で、詩人より読者に想像力があることもあると認めている。第一段落の後半である逆接の接続詞「しかし」の後は、読者の想像力について述べられている。詩が作者をはなれて、作者と読者の中間に純粋な詩の世界ができるときがある。読者の想像力が、ときに日常生活のものに積極的な詩の力をあたえることもある。また同時に、豊富な想像力と多彩なイメージによって作られているに見える作品が、想像力ある読者に、実は平凡な内容であると看破される場合もある。現代詩は難解などと謙虚そうに告白している人が、イ「まったく嘘をついているように私に思える」のは、彼らがすべての作品の質を習慣的に選別しており、自信を喪失してしまった形跡が見えないからだ。
このように第一段落に傍線部アとイがある。傍線部アは詩人には想像力が必要であること、傍線部イは読者が作者よりも想像力を有する場合があることが述べられている。
想像力は、恣意的に八方に拡散しているように見えも、必ずある方向性を持っている。ただそれは直線的に目標を指示していないから、ときに無方向に見える。むしろ目標から逆行する時間もふくんだ極端なジグザグな道程をたどることで本来の機能を発揮するとさえ考えてよいだろう。現代詩ではイメージとイメージがぶつかり、屈折して進行してゆく中で、思想や観念からはかんたんに切りすてられるような、目標から背馳する力が作用しながら、究極においては作者の想像力に一定の方向と思想性さえあたえる関係を、ウ「詩の力学」として、詩人はしっかりとつかんでいなければならない。この傍線部の直前の文がそのまま傍線部の意味内容である。
傍線部の後の文はそれを具体的に述べたものである。しかし逆接の接続詞「しかし」の後は、傍線部「詩の力学」をまとめている。否定的なモメントの中に肯定的なモメントを、暗さの中にある明るさをとらえることができるのも、詩人だけでなく読者の側にもその想像力があるからで、むしろ重大なのは読者の側に想像力があるということだ。そして筆者は、現代の詩人は、読者の想像力を見あやまっているように思われると述べる。
そして最後の段落だ。経験の質がテーマになる。強烈な想像力は、直接経験したことがらを超越するという意味において、現実の次元からとび出すことは可能であっても、エ「その現実の中での経験の質的な核を破壊することはできない」と筆者は述べる。たとえ宇宙を想像しても、想像力の行動半径は経験によって限定される。そして限定さているゆえに、私たちは、その想像力の実体を正確に知ることができると結んでいる。
(小野十三郎『想像力』)
【解説と解答】
(一)詩人が日常的なものだけから感動をひきだして詩を作るなら、傍線部ア「詩人なんてものは、人間にとって、あってもなくても一向にさしつかえのないつまらないものになるだろう」とあるのだから、傍線部の前の部分に注目しよう。また第一段落の前半が、傍線部から接続詞なしで続いているので、傍線部の言い換えだ。これをまとめよう。筆者は詩人に想像力を求めている。
【解答例】詩人には想像力が必要であり、日常の出来事をそのまま詩にするだけでは詩人である意味がないということ。
(二)第一段落の中ほどにある逆接の接続詞「しかし」の後は、読者の想像力について述べられている。詩が作者をはなれて、作者と読者の中間に純粋な詩の世界ができるときがある。読者の想像力が、ときに日常生活のものに積極的な詩の力をあたえることもある。また同時に、豊富な想像力と多彩なイメージによって作られているに見える作品が、想像力ある読者に、実は平凡な内容であると看破される場合もある。現代詩は難解などと謙虚そうに告白している人が、イ「まったく嘘をついているように私に思える」のは、彼らがすべての作品の質を習慣的に選別しており、自信を喪失してしまった形跡が見えないからだ。
【解答例】読者が詩人以上に想像力をもち、詩人の実力を見抜いているにもかかわらず、現代詩は難解だなどと謙遜してみせるから。
(三)傍線部ウの前で、詩の想像力は、直接目標に向かうのではなくジグザグな道程をたどると述べている。この傍線部の前をまとめるといい。傍線部に続く文はそれを具体的に述べたものだが、逆接の接続詞「しかし」の後は、傍線部「詩の力学」をまとめている。否定的なモメントの中に肯定的なモメントを、暗さの中にある明るさをとらえられるのも、詩人だけでなく読者の側にもその想像力があるからだとも述べている。ここも参考になる。
【解答例】まっすぐ表現するのではなく、闇の中に光というように逆のものを見出すことで、常識を破る内容を表現すること
(四)最後の段落では、経験の質がテーマになる。強烈な想像力は、直接経験したことを超越することは可能であっても、傍線部エ「その現実の中での経験の質的な核を破壊することはできない」と述べられており、さらに傍線部に続けて、想像は経験に裏打ちされており、経験に限定さているゆえに、私たちは想像力の実体を正確に知ることができると結んでいる。傍線部の前後を自分の言葉に替えてまとめよう。
【解答例】想像は現実を超えており一見すると経験とは無関係に見えるが、実は経験の延長であり、経験に基づいているということ。
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