2010年東大前期・国語第1問「個人のプライバシーのありか」
個人の本質はその内面にあるとみなす私たちの心への(あるいは内面への)信仰は、私生活を重要視し、個人の内面の矛盾からも内面を推し量ろうと試みてきた。もちろん、このような解釈様式そのものは近代以前からあったかもしれない。しかし近代ほど内面の人格的な質が重要な意味をもち、個人の社会的位置づけや評価に大きな影響力をもってさようしたことはなかっただろう。個人の内面が、社会的重要性をもってその社会的自己と結び付けられるようになるとき、(ア)内面のプライバシーが求められるようになったのである。
プライバシー意識が、内面を中心として形成されてきたのは、この時代の個人の自己の解釈様式に対応しているからだ。つまり、個人を知るカギはその内面にこそある。たしかに自己の所在が内面であるとされているあいだは、プライバシーもまた、そこが拠点になるだろう。社会的自己の本質が、個人のうちにあると想定されているような社会文化圏では、プライバシーのための(a)ボウヘキは、私生活領域、親密な人間関係、身体、心などといった、個人それ自体の周囲をとりまくようにして形づくられる。つまり、個人の内面を中心にして、同心円状に広がるプライバシーは、人間の自己の核心は内面にあるとする文化的イメージ、そしてこのイメージにあわせて形成される社会システムに対応したものである。
個人の自己が、その内面からコントロールされてつくられるという考え方は、自分の私生活の領域や身体のケア、感情の発露、あるいは自分の社会的・文化的イメージにふさわしくないと思われる表現を、他人の目から隠しておきたいと思う従来のプライバシー意識と深くかかわっている。このような考え方のもとでは、個人のアイデンティティも信用度も本人自身の問題であり、鍵はすべてその内面にあるとされるからである。
これは個人の自己の統一性というイデオロギーに符合する。自己は個人の内面によって統括され、個人はそれを一元的に管理することになる。このような主体形成では、個人は自分自身の行為や表現の矛盾、あるいは過去と現在との矛盾に対し、罪悪感を抱かされることになる。というのも自分自身のイメージやアイデンティティを守ることは、ひたすら個人自らの責任であり、個人が意識的に行っていることだからだ。このとき個人の私生活での行動と公にしている自己表現との食い違いや矛盾は、他人に見せてはならないものとなり、もしそれが暴露されれば個人のイメージは傷つき、そのアイデンティティや社会的信用もダメージを受ける。
ただし(イ)このような自己のコントロールは、他人との駆け引きや戦略というよりは、道徳的な性格のものであり、個人が自らの社会向けの自己を(b)イジするためのものである。だからこのことに関する個人の隠蔽や食い違いには他人も寛容であり、それを許容して見て見ぬふりをしたり、あるいはしばしば協力的にさえなる。アーヴィング・ゴフマンはこうした近代人の慣習を、いわゆる個人の体面やメンツへの儀礼的な配慮として分析し、その一部をウェスティンなどのプライバシー論が、個人のプライバシーへの配慮や思いやりとしてとらえた。
だが人びとは、他人のプライバシーに配慮を示す一方で、その人に悪意がはたらくときには、その行為の矛盾や非一貫性を欺瞞ととらえて(c)コウゲキすることもできる。たとえばそれが商業的に利用されると、私生活スキャンダルの報道も生まれてくるのだ。
しかし、もし個人の内面の役割が縮小し始めるならば、プライバシーのあり方も変わってくるだろう。(ウ)情報化が進むと、個人を知るのに、必ずしもその人の内面を見る必要はない、という考えも生まれてくる。たとえば、個人にまつわる履歴のデータさえわかれば十分だろう。その方が手軽で手っ取り早くその個人の知りたい側面を知ることができるとなれば、個人情報を通じてその人を知るというやり方が相対的にも多く用いられるようになる。場合によっては知られる側も、その方がありがたいと思うかもしれない。自分自身を評価するのに、他人の主観が入り交じった内面への評価などよりも個人情報による評価の方が、より客観的で公平だという見方もありうるのだ。だとすれば、たとえ自己の情報を提供し、管理を受け入れなければならないとしても、そのメリットもある。
「人に話せない心に秘密も、身体に秘められた経験も、いまでは情報に吸収され、情報として定義される」とウィリアム・ボガードはいう。私たちの私生活の行動パターンだけではなく、趣味や好み、適性までもが情報化され、分析されていく。「魅惑的な秘密の空間としてのプライヴァシーは、かつてあったとしても、もはや存在しない」。(エ)ボガードのこの印象的な言葉は、現に起こっているプライバシーの拠点の移行に対応している。個人の身体の周りや(d)ヒフの内側とその私生活のなかにあったプライバシーは、いまでは個人情報へと変換され、個人を分析するデータとなり、情報システムのなかで用いられる。ボガードはいう。「観察装置が、秘密のもつ魅惑を観察社会のなかではぎとってしまった」。そして「スクリーンは、人びとを「見張る」のでも、プライヴァシーに「侵入する」のでもなく、しだいにスクリーンそのものがプライヴァシーになりつつある」と。
スクリーンとは、ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』に登場するあのスクリーン、すなわち人びとのありとあらゆる生活を監視するテレスクリーンのことである。この小説では、人びとは絶えずテレスクリーンによって監視されていることが、プライバシーの問題になっていた。しかし今日の情報化社会では、プライバシーは監視される人びとの側にあるのではなく、むしろ監視スクリーンの方にある。つまりの内面や心の秘密をとりまく私生活よりも、それを管理する情報システムこそがプライバシ(e)ホゴの対象になりつつある。
「今日のプライヴァシーは、管理と同様、ネットワークのなかにある」とボガードはいう。だからプライバシーの終焉は妄想であると。だが、それでもある種のプライバシーは終わった。ここに見られるのは、プライバシーと呼ばれるものの中身や性格の大きな転換である。「今日、プライヴァシーと関係があるのは、「人格」や「個人」や「自己」、あるいは閉じた空間とか、一人にしてもらうこととかではなく、情報化された人格や、ヴァーチャルな領域」なのである。そして、情報化された人格とは、ここでいう(オ)データ・ダブルのことである。(坂本俊生『ポスト・プライバシー』)
〔注〕
○アーヴィング・ゴフマン――Erving Goffman(一九二二~一九八二)アメリカで活躍したカナダ人の社会学者。
○ウェスティン――Alan F. Westin(一九二九~)アメリカの公法・政治学者。
○ウィリアム・ボガード――William Bogard(一九五〇~)アメリカの社会学者。
○ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』――イギリスの小説家George Orwell(一九〇三~一九五〇)が著したNineteen Eighty-Four(一九四九年発表)
設問
(一)「内面のプライバシー」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。
(二)「このような自己のコントロール」(傍線部イ)とあるが、なぜそのようなコントロールが求められるようになるのか、説明せよ。
(三)「情報化が進むと、個人を知るのに、必ずしもその「人の内面を見る必要はない、という考えも生まれてくる」(傍線部ウ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。
(四)「ボガードのこの印象的な言葉は、現に起こっているプライバシーの拠点の移行に対応している」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。
(五)傍線部オの「データ・ダブル」という語は筆者の考察におけるキーワードのひとつであり、筆者は他の箇所で、その意味について、個人の外部に「データが生み出す分身(ダブル)」と説明している。そのことをふまえて、筆者は今日の社会における個人のあり方をどのように考えているのか、一〇〇字以上一二〇字以内で述べよ。
(六)傍線部a、b、c、d、eのカタカナに相当する漢字を楷書で書け。
a ボウヘキ b イジ c コウゲキ d ヒフ e ホゴ
【要約と解説】
第一段落に早々と傍線部ア[内面のプライバシー]がある。この最初の段落では、わたしたちは私生活を重視すること、また個人の内面を知ろうとするとき個人が抱える内面の矛盾を切り口に推し量ろうとする。そして個人の内面が、社会的自己と結び付けられ、(ア)[内面のプライバシー]が求められるようになった主張する。
第二段落では、近代のプライバシー意識が、個人の内面を中心として形成されてきたことを述べている。そしてその後の文章は、「つまり」「たしかに」とつづく。「たしかに」は他の意見の一部を承認するときに使う接続詞だから、この文章全体で主張したいプライバシーは、ここで述べられている「内面のプライバシー」ではないと分かる。「しかし」で始まる第七段落以降が筆者の主張である。
第三段落で、従来のプライバシー意識が具体的に説明される。社会的に知られるとまずいと思われることを、他人の目から隠しておきたいと思う従来のプライバシー意識だ。これは傍線部(ア)につながる。続けて、個人のアイデンティティも社会的信用も本人自身の問題とされると述べられる。これは傍線部(イ)につながる。
第四段落では、自己同一性について述べられ、個人の私生活での行動と公での自己表現との矛盾は他人に見せてはならないものであり、それが暴露されると個人のイメージは傷つき、社会的信用もダメージを受けると述べる。そして第五段落で傍線部(イ)で[このような自己のコントロール]と述べられる。自己のコントロールとは戦略というより道徳的なものであり、個人が自らの社会的地位を維持するためのものである。そのため、個人が隠し事をしていても矛盾していても他人は寛容であると述べる。だが第六段落では、人びとは他人のプライバシーに配慮を示す一方で、その人に悪意をもつときには行為の矛盾や非一貫性を欺瞞ととらえて攻撃する。それが商業的に利用されると、スキャンダル報道にもなる。
第七段落では、「しかし」と話を始める。ここからが筆者の言いたいことだ。傍線部(ウ)で[情報化が進むと、個人を知るのに、必ずしもその人の内面を見る必要はない、という考えも生まれてくる]と述べられる。個人の内面が分からなくても、個人の買物履歴や閲覧履歴、さらにデータ処理された個人情報がわかれば十分だ。その方が手軽で手っ取り早くその個人の知りたい側面が分かる。
そして第八段落では、「魅惑的な秘密の空間としてのプライバシーは、かつてあったとしても、もはや存在しない」という言葉を引用した後で、傍線部(エ)の[ボガードのこの印象的な言葉は、現に起こっているプライバシーの拠点の移行に対応している]がある。そして次の第九段落で、個人のプライバシーが個人情報へと変換され、個人を分析するデータとなり、情報システムのなかで用いられると述べられる。さらに、第十段落では、ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』を具体例に、小説では人びとが監視されていることがプライバシーの問題になっていたが、今日の情報社会では、個人情報を管理している情報システムから個人情報が奪われていると述べられる。そして情報管理システムが、プライバシー保護の対象になりつつあると主張される。
第十一段落ではまとめとして、今日のプライバシーは、ネットワークの中にあるというボガードの言葉が引用され、今日のプライバシーは個人情報であり、傍線部(オ)[データ・ダブル]であると結ばれる。
【解説と解答】
(一)第一段落で、わたしたちは私生活を重視すること、また個人の内面を知ろうとするとき個人が抱える内面の矛盾を切り口に推し量ろうとする。そして個人の内面が、社会的自己と結び付けられると、傍線部(ア)[内面のプライバシー]が求められるようになるという。第二段落では、近代のプライバシー意識が説明され、第三段落で社会的自己との関係が述べられる。
【解答例】社会的に知られるとまずいと思われる個人的なことで、他人の目から隠しておきたいと思う従来のプライバシー意識のこと。
(二)第三段落で、従来のプライバシー意識が具体的に説明され、続けて個人のアイデンティティも社会的信用も本人自身の問題と述べられている。これが傍線部(イ)につながる。第四段落では、自己同一性について述べられ、個人の私生活での行動と公での自己表現との矛盾は他人に見せてはならないものであり、それが暴露されると個人のイメージは傷つき、社会的信用もダメージを受けると述べる。そして第五段落で傍線部(イ)で[このような自己のコントロール]と述べられる。
【解答例】個人が自らの社会的地位を維持するため、公的発言と矛盾する私的行為を隠すために自己をコントロールする。
(三)傍線部(ウ)のある第七段落では、「しかし」と話を始める。ここからが筆者の言いたいことであり、傍線部(ウ)の内容だ。個人の内面が分からなくても、買物履歴や閲覧履歴で個人のことは分かり、そのようなデータがわかれば企業は戦略をうつことができる。スマートフォンの普及で、そこから得られたデータがビッグデータとして、今日利用されているのは知っているだろう。
【解答例】個人の内面が分からなくても個人の履歴やデータ処理された情報で、企業は必要な個人情報を得られるから。
(四)第八段落では、「魅惑的な秘密の空間としてのプライバシーは、かつてあったとしても、もはや存在しない」という言葉が引用された後で、傍線部(エ)がある。そして次の第九段落で、個人のプライバシーが個人情報へと変換され、情報システムのなかで用いられると述べられる。さらに第十段落では、ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』を具体例に、小説では人びとが監視されていることがプライバシーの問題になっていたが、今日の情報社会では、個人情報を管理している情報システムから個人情報が奪われていると述べられる。そして情報管理システムが、保護の対象になりつつあると主張される。この第九・十段落の内容を要約しよう。
【解答例】今日では情報管理システムから個人情報が奪われているように、情報管理システムにプライバシーのありかが移っている。
(五)第十一段落ではまとめとして、今日のプライバシーは、ネットワークの中にあるというボガードの言葉が引用され、今日のプライバシーは個人情報であり、それが傍線部(オ)「データ・ダブル」であると述べられている。そして設問のなかで、「データ・ダブル」とは、個人の外部につくられた「データが生み出す分身(ダブル)」であると説明している。
【解答例】企業は個人の内面が分からなくても、買物履歴や閲覧履歴から個人を特定できる情報を抜いたデータで、個人に対応したサービスを供給している。個人は特定されないといわれるが、データを重ね合わせると個人が見えることを個人も自覚する必要があろう。
プライバシー意識が、内面を中心として形成されてきたのは、この時代の個人の自己の解釈様式に対応しているからだ。つまり、個人を知るカギはその内面にこそある。たしかに自己の所在が内面であるとされているあいだは、プライバシーもまた、そこが拠点になるだろう。社会的自己の本質が、個人のうちにあると想定されているような社会文化圏では、プライバシーのための(a)ボウヘキは、私生活領域、親密な人間関係、身体、心などといった、個人それ自体の周囲をとりまくようにして形づくられる。つまり、個人の内面を中心にして、同心円状に広がるプライバシーは、人間の自己の核心は内面にあるとする文化的イメージ、そしてこのイメージにあわせて形成される社会システムに対応したものである。
個人の自己が、その内面からコントロールされてつくられるという考え方は、自分の私生活の領域や身体のケア、感情の発露、あるいは自分の社会的・文化的イメージにふさわしくないと思われる表現を、他人の目から隠しておきたいと思う従来のプライバシー意識と深くかかわっている。このような考え方のもとでは、個人のアイデンティティも信用度も本人自身の問題であり、鍵はすべてその内面にあるとされるからである。
これは個人の自己の統一性というイデオロギーに符合する。自己は個人の内面によって統括され、個人はそれを一元的に管理することになる。このような主体形成では、個人は自分自身の行為や表現の矛盾、あるいは過去と現在との矛盾に対し、罪悪感を抱かされることになる。というのも自分自身のイメージやアイデンティティを守ることは、ひたすら個人自らの責任であり、個人が意識的に行っていることだからだ。このとき個人の私生活での行動と公にしている自己表現との食い違いや矛盾は、他人に見せてはならないものとなり、もしそれが暴露されれば個人のイメージは傷つき、そのアイデンティティや社会的信用もダメージを受ける。
ただし(イ)このような自己のコントロールは、他人との駆け引きや戦略というよりは、道徳的な性格のものであり、個人が自らの社会向けの自己を(b)イジするためのものである。だからこのことに関する個人の隠蔽や食い違いには他人も寛容であり、それを許容して見て見ぬふりをしたり、あるいはしばしば協力的にさえなる。アーヴィング・ゴフマンはこうした近代人の慣習を、いわゆる個人の体面やメンツへの儀礼的な配慮として分析し、その一部をウェスティンなどのプライバシー論が、個人のプライバシーへの配慮や思いやりとしてとらえた。
だが人びとは、他人のプライバシーに配慮を示す一方で、その人に悪意がはたらくときには、その行為の矛盾や非一貫性を欺瞞ととらえて(c)コウゲキすることもできる。たとえばそれが商業的に利用されると、私生活スキャンダルの報道も生まれてくるのだ。
しかし、もし個人の内面の役割が縮小し始めるならば、プライバシーのあり方も変わってくるだろう。(ウ)情報化が進むと、個人を知るのに、必ずしもその人の内面を見る必要はない、という考えも生まれてくる。たとえば、個人にまつわる履歴のデータさえわかれば十分だろう。その方が手軽で手っ取り早くその個人の知りたい側面を知ることができるとなれば、個人情報を通じてその人を知るというやり方が相対的にも多く用いられるようになる。場合によっては知られる側も、その方がありがたいと思うかもしれない。自分自身を評価するのに、他人の主観が入り交じった内面への評価などよりも個人情報による評価の方が、より客観的で公平だという見方もありうるのだ。だとすれば、たとえ自己の情報を提供し、管理を受け入れなければならないとしても、そのメリットもある。
「人に話せない心に秘密も、身体に秘められた経験も、いまでは情報に吸収され、情報として定義される」とウィリアム・ボガードはいう。私たちの私生活の行動パターンだけではなく、趣味や好み、適性までもが情報化され、分析されていく。「魅惑的な秘密の空間としてのプライヴァシーは、かつてあったとしても、もはや存在しない」。(エ)ボガードのこの印象的な言葉は、現に起こっているプライバシーの拠点の移行に対応している。個人の身体の周りや(d)ヒフの内側とその私生活のなかにあったプライバシーは、いまでは個人情報へと変換され、個人を分析するデータとなり、情報システムのなかで用いられる。ボガードはいう。「観察装置が、秘密のもつ魅惑を観察社会のなかではぎとってしまった」。そして「スクリーンは、人びとを「見張る」のでも、プライヴァシーに「侵入する」のでもなく、しだいにスクリーンそのものがプライヴァシーになりつつある」と。
スクリーンとは、ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』に登場するあのスクリーン、すなわち人びとのありとあらゆる生活を監視するテレスクリーンのことである。この小説では、人びとは絶えずテレスクリーンによって監視されていることが、プライバシーの問題になっていた。しかし今日の情報化社会では、プライバシーは監視される人びとの側にあるのではなく、むしろ監視スクリーンの方にある。つまりの内面や心の秘密をとりまく私生活よりも、それを管理する情報システムこそがプライバシ(e)ホゴの対象になりつつある。
「今日のプライヴァシーは、管理と同様、ネットワークのなかにある」とボガードはいう。だからプライバシーの終焉は妄想であると。だが、それでもある種のプライバシーは終わった。ここに見られるのは、プライバシーと呼ばれるものの中身や性格の大きな転換である。「今日、プライヴァシーと関係があるのは、「人格」や「個人」や「自己」、あるいは閉じた空間とか、一人にしてもらうこととかではなく、情報化された人格や、ヴァーチャルな領域」なのである。そして、情報化された人格とは、ここでいう(オ)データ・ダブルのことである。(坂本俊生『ポスト・プライバシー』)
〔注〕
○アーヴィング・ゴフマン――Erving Goffman(一九二二~一九八二)アメリカで活躍したカナダ人の社会学者。
○ウェスティン――Alan F. Westin(一九二九~)アメリカの公法・政治学者。
○ウィリアム・ボガード――William Bogard(一九五〇~)アメリカの社会学者。
○ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』――イギリスの小説家George Orwell(一九〇三~一九五〇)が著したNineteen Eighty-Four(一九四九年発表)
設問
(一)「内面のプライバシー」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。
(二)「このような自己のコントロール」(傍線部イ)とあるが、なぜそのようなコントロールが求められるようになるのか、説明せよ。
(三)「情報化が進むと、個人を知るのに、必ずしもその「人の内面を見る必要はない、という考えも生まれてくる」(傍線部ウ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。
(四)「ボガードのこの印象的な言葉は、現に起こっているプライバシーの拠点の移行に対応している」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。
(五)傍線部オの「データ・ダブル」という語は筆者の考察におけるキーワードのひとつであり、筆者は他の箇所で、その意味について、個人の外部に「データが生み出す分身(ダブル)」と説明している。そのことをふまえて、筆者は今日の社会における個人のあり方をどのように考えているのか、一〇〇字以上一二〇字以内で述べよ。
(六)傍線部a、b、c、d、eのカタカナに相当する漢字を楷書で書け。
a ボウヘキ b イジ c コウゲキ d ヒフ e ホゴ
【要約と解説】
第一段落に早々と傍線部ア[内面のプライバシー]がある。この最初の段落では、わたしたちは私生活を重視すること、また個人の内面を知ろうとするとき個人が抱える内面の矛盾を切り口に推し量ろうとする。そして個人の内面が、社会的自己と結び付けられ、(ア)[内面のプライバシー]が求められるようになった主張する。
第二段落では、近代のプライバシー意識が、個人の内面を中心として形成されてきたことを述べている。そしてその後の文章は、「つまり」「たしかに」とつづく。「たしかに」は他の意見の一部を承認するときに使う接続詞だから、この文章全体で主張したいプライバシーは、ここで述べられている「内面のプライバシー」ではないと分かる。「しかし」で始まる第七段落以降が筆者の主張である。
第三段落で、従来のプライバシー意識が具体的に説明される。社会的に知られるとまずいと思われることを、他人の目から隠しておきたいと思う従来のプライバシー意識だ。これは傍線部(ア)につながる。続けて、個人のアイデンティティも社会的信用も本人自身の問題とされると述べられる。これは傍線部(イ)につながる。
第四段落では、自己同一性について述べられ、個人の私生活での行動と公での自己表現との矛盾は他人に見せてはならないものであり、それが暴露されると個人のイメージは傷つき、社会的信用もダメージを受けると述べる。そして第五段落で傍線部(イ)で[このような自己のコントロール]と述べられる。自己のコントロールとは戦略というより道徳的なものであり、個人が自らの社会的地位を維持するためのものである。そのため、個人が隠し事をしていても矛盾していても他人は寛容であると述べる。だが第六段落では、人びとは他人のプライバシーに配慮を示す一方で、その人に悪意をもつときには行為の矛盾や非一貫性を欺瞞ととらえて攻撃する。それが商業的に利用されると、スキャンダル報道にもなる。
第七段落では、「しかし」と話を始める。ここからが筆者の言いたいことだ。傍線部(ウ)で[情報化が進むと、個人を知るのに、必ずしもその人の内面を見る必要はない、という考えも生まれてくる]と述べられる。個人の内面が分からなくても、個人の買物履歴や閲覧履歴、さらにデータ処理された個人情報がわかれば十分だ。その方が手軽で手っ取り早くその個人の知りたい側面が分かる。
そして第八段落では、「魅惑的な秘密の空間としてのプライバシーは、かつてあったとしても、もはや存在しない」という言葉を引用した後で、傍線部(エ)の[ボガードのこの印象的な言葉は、現に起こっているプライバシーの拠点の移行に対応している]がある。そして次の第九段落で、個人のプライバシーが個人情報へと変換され、個人を分析するデータとなり、情報システムのなかで用いられると述べられる。さらに、第十段落では、ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』を具体例に、小説では人びとが監視されていることがプライバシーの問題になっていたが、今日の情報社会では、個人情報を管理している情報システムから個人情報が奪われていると述べられる。そして情報管理システムが、プライバシー保護の対象になりつつあると主張される。
第十一段落ではまとめとして、今日のプライバシーは、ネットワークの中にあるというボガードの言葉が引用され、今日のプライバシーは個人情報であり、傍線部(オ)[データ・ダブル]であると結ばれる。
【解説と解答】
(一)第一段落で、わたしたちは私生活を重視すること、また個人の内面を知ろうとするとき個人が抱える内面の矛盾を切り口に推し量ろうとする。そして個人の内面が、社会的自己と結び付けられると、傍線部(ア)[内面のプライバシー]が求められるようになるという。第二段落では、近代のプライバシー意識が説明され、第三段落で社会的自己との関係が述べられる。
【解答例】社会的に知られるとまずいと思われる個人的なことで、他人の目から隠しておきたいと思う従来のプライバシー意識のこと。
(二)第三段落で、従来のプライバシー意識が具体的に説明され、続けて個人のアイデンティティも社会的信用も本人自身の問題と述べられている。これが傍線部(イ)につながる。第四段落では、自己同一性について述べられ、個人の私生活での行動と公での自己表現との矛盾は他人に見せてはならないものであり、それが暴露されると個人のイメージは傷つき、社会的信用もダメージを受けると述べる。そして第五段落で傍線部(イ)で[このような自己のコントロール]と述べられる。
【解答例】個人が自らの社会的地位を維持するため、公的発言と矛盾する私的行為を隠すために自己をコントロールする。
(三)傍線部(ウ)のある第七段落では、「しかし」と話を始める。ここからが筆者の言いたいことであり、傍線部(ウ)の内容だ。個人の内面が分からなくても、買物履歴や閲覧履歴で個人のことは分かり、そのようなデータがわかれば企業は戦略をうつことができる。スマートフォンの普及で、そこから得られたデータがビッグデータとして、今日利用されているのは知っているだろう。
【解答例】個人の内面が分からなくても個人の履歴やデータ処理された情報で、企業は必要な個人情報を得られるから。
(四)第八段落では、「魅惑的な秘密の空間としてのプライバシーは、かつてあったとしても、もはや存在しない」という言葉が引用された後で、傍線部(エ)がある。そして次の第九段落で、個人のプライバシーが個人情報へと変換され、情報システムのなかで用いられると述べられる。さらに第十段落では、ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』を具体例に、小説では人びとが監視されていることがプライバシーの問題になっていたが、今日の情報社会では、個人情報を管理している情報システムから個人情報が奪われていると述べられる。そして情報管理システムが、保護の対象になりつつあると主張される。この第九・十段落の内容を要約しよう。
【解答例】今日では情報管理システムから個人情報が奪われているように、情報管理システムにプライバシーのありかが移っている。
(五)第十一段落ではまとめとして、今日のプライバシーは、ネットワークの中にあるというボガードの言葉が引用され、今日のプライバシーは個人情報であり、それが傍線部(オ)「データ・ダブル」であると述べられている。そして設問のなかで、「データ・ダブル」とは、個人の外部につくられた「データが生み出す分身(ダブル)」であると説明している。
【解答例】企業は個人の内面が分からなくても、買物履歴や閲覧履歴から個人を特定できる情報を抜いたデータで、個人に対応したサービスを供給している。個人は特定されないといわれるが、データを重ね合わせると個人が見えることを個人も自覚する必要があろう。
この記事へのコメント
わたし 滋賀県の旧東浅井郡虎姫町酢に住んでます 多賀と申します。
以前 小倉家のルーツで 戦に敗れて子供を里の人が助けてくれ 小倉家に子養子として育ててくれ 成人した時に 多賀を名のらしてくれというのを 聞きました。 ネットで多賀のルーツを調べると 出雲守の宗直の子孫が小倉に引き取られ 今現在に至ってるのか? とも思います。
今現在も 同家として八軒とは親戚付き合いをしています。
旧虎姫にも同和地区がありますし 犬上郡にも同和地区があります。 これも多賀が保守の為にしたことなのかも含めて 教えてもらえませんか。
よろしくお願いします。
ブログ中「多賀大社梵鐘銘文(天文24年)」のコメント欄に投稿願います。
(一)「内面のプライバシー」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。
の設問についてですが第一段落の最後に傍線が引かれているので第一段落の文脈から判断し内面のプライバシーについてどういうことか説明すると個人的に思うのですが佐々木さんの解答は「まずいと思われる」や「従来のプライバシー意識」といった表現を使い、その表現の解釈は一段落から判断するにはそれているような気がします。
確かに、全体を通してならば、その解答は佐々木さんの解説の通りで私も納得がいきます。
しかし、一段落の最後となるとやはりその段落でまとめることが過去の経験上適していると思うのです。
かりに二段落以降の文章がなく一段落で完結しているならば佐々木さんの解答のようにはならないはずです。
なぜ、二段落以降を吟味して解答するのでしょうか。
もしよろしければご回答の方よろしくお願いいたします。
段落の最後の文はその段落のまとめですから、傍線部が段落の最後の文にひかれている場合は、段落の内容をまとめれば解答が出来上がります。その点で、あなたの意見は正しいです。
その一方で段落の最後の文は、次の段落の最初の文につながります。そのため次の段落にも注目するといいでしょう。
部分は全体を構成するものであり、それぞれの部分が独立して存在しているわけではありません。部分を知るには全体を見る必要があり、全体を知るには部分を見る必要があります。
東大二次の現代文は、解答を見直すと全体のあらすじになるように問題が構成されていますので、わたしの解答例は全体を意識して作成されています。
わたしの解答例は、①受験生にも書きやすいもの、②大人が教養として読むためのものであり、模範的な解答を示したものではありません。あくまで一例です。これに、みなさんが工夫を凝らして完成していただければと思います。