三井・目賀田氏の略系譜

 三井・目賀田氏はその系譜伝承によれば、藤原道長流御子左家の権中納言藤原基忠の子右馬頭信忠の子孫という。そして一井氏の女婿になることで、比牟礼八幡社神主となった。一井氏は和邇氏族だが、佐々木荘下司源行真(豊浦冠者行実)の孫家職が一井氏に養子に入り源氏となった。さらに一井氏に目賀田氏が女婿に入った。まず一井中務太郎入道生蓮から目賀田女房(一井丞正観)に正神主職と大島郷内の田畠が譲渡され(一七六九号、『鎌倉遺文』23362)、延慶元年十二月日付袖判文書で一井丞正観(源氏女)が神主に補任された。さらに元弘二年(一三三二)正月十三日付比牟礼神主下文(一七七一号)で一井正観から目賀田信職(藤原信職)に神主職が譲与され、さらに文和四年八月十一日付一井殿御譲正文(一七七二号)で一井氏から信職に所領が譲渡されている。

 ところで目賀田信職は藤原氏を名乗っていたが、天龍寺供養で六角満高に供奉した目賀田次郎左衛門尉源兼遠は源氏を名乗っていた。源氏の名乗りは、源姓一井氏を継承したからだろう。佐々木六角氏に仕えるときは、佐々木一族として源氏を称したと考えられる。このように目賀田氏は藤原氏とも源氏とも名乗っている。これが『尊卑分脈』で御子左流藤原氏に平信忠が記されている理由かもしれない。分脈によれば御子左流藤原信忠は三条源氏右中将信宗の実子とも伝えられ、藤原氏とも源氏とも名乗るには都合がいい。しかし資料上で左馬頭信忠に相当する人物は、後白河院近臣右馬助平信忠であり、藤原氏ではなく平氏である。さらに系譜伝承で信忠の子とされる右馬信生は、資料上の左馬権頭平信業(信成)に相当しよう。信業は信忠の弟だが年齢差もあり、父子の礼をとっていた。信業は長い間左馬権頭であり、のち大膳大夫に至ったものの、系譜伝承で大膳大夫ではなく右馬と伝えられても不思議ではない。むしろ自然であろう。このように左馬頭藤原信忠で探しても見つからなかった信忠も、左馬頭・信忠という官位と実名をもとに探したことで、後白河院近臣右馬助平信忠に至り、系図上の信生も左馬権頭信業(信成)に相当すると考えるに至った。さらに系図で信生の子とされる信政についても、東寺百合文書に見える左近衛将監平信正と同一人物と考えられる。年代的に左馬頭信業の子にふさわしく、官位の左近衛将監(六位相当)は天皇の親衛隊である左近衛府の判官(三等官)であり、現場で指揮をとった。そのため近衛将監は、六位蔵人・式部丞・民部丞・外記・史・衛門尉と同様に、正月の叙位で叙爵枠があり、人気のある官職であった。左近衛将監で五位に叙爵された者をとくに左近大夫という。鎌倉御家人では北条氏が補任され、佐々木氏では信綱が初官で六位左近衛将監に補任されている。任官当時の左近衛大将九条道家の推挙であろう。このように名誉ある左近衛将監は大膳大夫(四位相当)の子にふさわしいといえよう。さらに信正の子は大膳允で大膳職の判官(三等官)であった。藤原氏という考えを捨てることで三井・目賀田氏の系譜研究は一歩前進したといえる。

 右馬助平信忠は壬生家文書によれば、摂津採銅所預(奉行)大江氏の実子あるいは養子であり、検非違使補任のときには大江氏を名乗っている。その摂津には目賀田氏と同様、平姓で信の字を通字とする芥河氏があった。右馬寮の官職に補任され、家紋が杏葉紋であることも目賀田氏と共通している。摂津採銅所の権益を有した平信忠(大江信忠)の直系の可能性がある。

 また東寺百合文書所収の平信正敷地文書紛失状案の証人のひとりに伊勢権守平永貞がいることから、平信忠・信業の系譜を伊勢平氏に求められるかもしれない。また証人の一人佐々木助友(助朝)が京都梅小路の敷地を購入していることから、この信正・大炊允父子のとき近江に移ったと考えられる。佐々木助友(助朝)もすぐに源国末に転売しており、仲介者であった可能性もある。また源国末が清和源氏義親流の源太国季と同一人物であれば、摂津採銅所がある摂津能勢郡を本拠とする能勢国能の女婿であり興味深い。

 では目賀田氏が名乗る藤原氏は、どのような系譜であろうか。そこで杏葉紋を使用する藤原氏を調べてみよう。すると車紋に杏葉紋を使用した勧修寺流藤原親雅(沼田頼輔『家紋大辞典』)、藤原氏頼宗流持明院家、あるいは中原親能(藤原親能)の子孫摂津氏が見つかる。このうち中原親能は、御子左流藤原俊忠の実子で中原広季の養子とも、また逆に広季の実子で俊忠の養子とも伝わり、その系譜は確定しがたい。豊後大友氏が杏葉紋を使用したのは、初代能直が中原親能の養子だったことによる。しかし、もっとも注目できるのは平信業(系図上の信生)の女婿藤原親雅であろう。勧修寺流からは、信正父子の先祖伝来の地である梅小路周辺を家名とする梅小路家が派生する。しかし勧修寺流藤原氏の諸家は、中近世には竹に雀紋を使用している。そのため勧修寺流藤原親能が杏葉紋を使用したのは、杏葉紋が馬具に由来するように、馬寮の官職を得た平信忠・信業・業忠との関係とも考えられる。親雅と信正の名乗りの間には通字の関係あるかもしれない。

この記事へのコメント

高宮氏
2016年09月18日 22:37
以前高宮氏について教えて頂いたものです。一井氏に関して更に知ることが出来ました。ありがとうございます!

以前から三井氏が秦氏の京都の木島神社を祀って三本鳥居の三廻社を持っていることと、一井氏との関係を考えておりました。

秦氏のいた場所である河内太秦の近くに高宮の地名や一井の井戸があったり
京都太秦広隆寺に一井の地名があること
嵐山の櫟谷宗像神社を秦氏が祀っていることなど

この一井氏は秦河勝の一族と大変近い関係なのではないかと予想してしまいましたが、

古代からの
佐佐木氏と秦氏との結びつきについて何かご存じのことがあれば教えて頂けたら嬉しいです。
特にこの間オリンピックで女子柔道の南条監督の名前が珍しく調べてみましたら
一部の南条氏が佐佐木氏出自なのに賀茂姓を名乗っていることから

佐佐木氏と賀茂&秦氏との結びつきについて考えておりました。
山本
2017年08月13日 18:02
目加田誌によると、「光明寺文書によれば、光明寺は九条家と由緒があり、兼実の位牌を天正8年(1580)から同17年(1589)にかけて安置していた。・・・文久酉年(1861)・・・兼実の650回忌にあたり・・・当寺の住職も・・・委細を申し述べたところ、事跡のあること相違なく・・・要するに目賀田氏は藤原氏の出であり、この地に在城のころより先祖の位牌を菩提寺である光明寺に安置したものと考えられる。」とあります。

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