2012年東大前期国語第1問「科学的自然観」

環境問題は、汚染による生態系の劣悪化、生物種の減少、資源のaコカツ、廃棄物の累積などの形であらわれている。その原因は、自然の回復力と維持力を超えた人間による自然資源の搾取にある。環境問題の改善には、思想的・イデオロギー的な対立と国益の衝突を超えて、国際的な政治合意を形成して問題に対処していく必要がある。 しかしながら、環境問題をより深…
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2014年東大後期・総合科目Ⅲ【解答と解説】

第一問 【問一】 健康という言葉は、明治時代の中頃に、明治政府が西洋医学の概念を持ち込んだことに始まる。明治政府は西洋医学の衛生や健康という概念を利用して、国民を管理しようと考えたのである。そのため西洋医学の医師を国家資格が必要な専門職にして、漢方医や鍼灸師・宗教家など民間医療従事者を排除した。このようにして西洋医学を通して、強い兵…
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2014年東大前期・国語第4問【解答速報】

仕事の打ち合わせでだれかとはじめて顔を合わせるとき、そんなときには、互いに見ない触角を伸ばして話題を探すことになる。もともとにがてだったそういう事柄が、いつからか嫌でなくなり、いまでは愉しいひとときにすらなってきた。どのみち避けられないから、嫌ではないはずと自己暗示を掛けているだけかもしれない。いずれにしても、初対面の人と向かい合う時間…
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2014年東大前期・国語第1問【解答】

第一問 次の文章は、ある精神分析家が自身の仕事と落語とを比較して述べたものである。 いざ仕事をしているときの落語家と分析家の共通するものは、まず圧倒的な孤独である。落語家は金を払って「楽しませもらおう」とわざわざやってきた客に対して、たった一人で対峙する。多くの出演者の出る寄席の場合はまだいいが、独演会になるとそれはきわだつ。他…
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2013年東大前期・国語第4問「見ること」

知覚は、知覚自身を超えて行こうとする一種の努力である。この努力は、まったく生活上のものとして為されている。実際、私は今自分が見ているこの壺が、ただ網膜に映っているだけのものだとは決して考えない。私からは見えない側にある、この壺の張りも丸みも色さえも、私は見ようとしているし、実際見ていると言ってよい。見えるものを見るとは、もともとそうした…
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『天文三年浅井備前守宿所饗応記』

『天文三年浅井備前守宿所饗応記』 浅井備前守(亮政) 御屋形様(京極高清) 御曹司様(高広) 「一族衆」 京極加賀守政数 加賀五郎(政数甥) 黒田四郎左衛門尉(宗清) 岩山民部少輔 高橋兵部少輔(清世) 碧憪斎 「奉行人」 大津若狭守(清忠) 山田越中守(清氏) 「国人衆」 熊谷下…
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2013年東大前期・国語第1問「翻訳」

詩人―作家が言おうとすること、いやむしろ正確に言えば、その書かれた文学作品が言おう、言い表そうと志向することは、それを告げる言い方、表し方、志向する仕方と切り離してはありえない。人々はよく、ある詩人―作家の作品は「しかじかの主張をしている」、「こういうメッセージを伝えている」、「彼の意見、考え、感情、思想はこうである」、と言うことがある…
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細川幽斎の系譜-佐々木大原流細川氏

熊本藩主細川氏の藩祖細川藤孝(幽斎)の養父が、実は佐々木大原氏出身の細川政誠(伊豆守・治部少輔)の孫刑部少輔晴広(又次郎)との有力な学説がある。これは山田康弘「細川幽斎の養父について」(『日本歴史』2009年3月号、96-104頁)で発表したものである。 『寛永諸家系図伝』編集のとき子細川忠興の証言によれば、幽斎は三淵氏の出身で、…
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長山遠江守と佐々木馬淵氏【改訂版】

 和歌山県有田郡広川町広八幡宮所蔵佐々木系図によれば、紀伊竹中氏は佐々木氏の出自で、美濃竹中氏の子孫と伝えられている。美濃竹中氏といえば、羽柴秀吉の軍師竹中半兵衛重治が有名であり、遠江守重元―半兵衛重治―丹後守重門と続く。竹中遠江守が六角義治から援軍要請を受けて近江坂田郡に出兵するなど、近江・美濃国境を支配していた竹中氏は六角氏との関係…
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美濃土岐氏系図の研究(1)―土岐頼貞の系譜(2訂)

 鎌倉期の土岐氏は美濃の有力御家人で、北条氏と姻戚関係を結び、土岐隠岐守光定は北条氏を妻としていた。光定の庶子は隠岐太郎・三郎と称し、嫡子は隠岐孫太郎・孫二郎と称した。系図では頼貞母を北条貞時女とし、頼貞妻を北条宗頼女とする。しかし頼貞母(光定妻)は北条時定女の誤りだろう。時定は得宗北条経時・時頼兄弟の同母弟で、肥後国i阿蘇社領を管理し…
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